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やなこと

生き方


生きていると、

降って湧いたかのように

嫌なことが起こったりもする。

その際に、私たちは、

動転し、訳がわからなくなり、

怒りや、哀しみや不安やらの

嫌な気持ちに縛られてしまう。

一旦縛られてしまうと、

その嫌な気持ちは、

ブスブスと燻り、

その理由を探そうとし、

自分なりに解釈をいれて

解消しようとする。

そうしないと健康的に生きれないから。
(合理化や認知的不協和理論)

そんな時、

その嫌な気持ちの多くは

他者からもたらされることが殆どの為、

その他者と境遇を置換して考えてみる。

悪意を持っているいないを考慮し

審判するのではなく、

そうせざるを得ない相手の気持ちを

広い気持ちで考えてみる。

そうせざるを得ない

って理由があるのではないか?

そう考えていくと、

相手の そうせざるを得ない 

ってことの理由は

理解出来なくとも、
(殆ど分かることはない。
だって自分じゃないのだから。)

少なくとも、

そうせざるを得ない矛先が

自分に向いたからこそ

自分は怒りや哀しさを感じたけれど、

私は怒りや哀しさを

その相手に感じさせられたからこそ

嫌な気持ちになっているのであって、

そんな無遠慮で不躾な

相手の都合になんて乗るまいと

自らの意思で決めることが出来る。

つまり、

相手にも、そうせざるを得ない理由が

何かしらあったということを認めること

そのものが相手を既に赦すってことであり、

その赦しというフィルターを通すことにより、

怒りや哀しみは形を変えていき、

形が変わるから、

その形が変わった嫌な気持ちを

持ち続けることが馬鹿らしくなり、

馬鹿らしくなるから

捨てられる。


捨てきれない場合は、

何回も繰り返し、

捨てられないを

捨てる

に能動的に変えていく。

自らの為に。


降って湧くことがある。

嫌な気持ちにさせられることがある。

その大概は理不尽なもの。

でも、

被害者意識を持ち続けることは、

自分の生きる道を曇らせる。


馬鹿らしい


って真に思えるかどうか。

私たちは

いつも試されている。

めんどくさいけど

他者と生きる(広い意味で)限りは

常につきまとう課題であり、

課題は乗り越える為にあるものだ

って定義する。


ご参考まで。