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ありのままとは

生き方


ありのままの自分でいい。

って割とあるゆる人が言います。

確かにその通りですが、

私の言う「ありのまま」をお伝えしたいと

思います。

昨日に書いた「自我」と「無相の自己」

◎タイトル名「自分とは」ご参照。

でも触れましたが、

ありのままとは「無相の自己」のまま。

って意味で、

「魂」は無垢で純粋なものだから、

それだけで価値があるということ。

そこに自らや他者からの影響で創出した

自分が思っている現実としている

「自我」を擦り合わせていくってことが、

『生きる』ってことの本質。

だから、

努力も必要だし、労苦も必要だし、

感謝も必要だし、節制し、欲を禁じ、

信義を重んじ、道義を照らし、

調和を善しとし、

自らを磨くことが必要だってこと。

それこそが、

「自分を愛し、自分を大切にする。」

ってこと。

だから、

修験者はあれほどの

厳しく過酷な修行をするってこと。


ただ、

逆説的に考えると

魂レベルでは既にそのままで良いのだから、

何もしなくてもいいじゃない。

ってのも確かにですし、

間違っているわけではないけれど、

生まれてきた意味は、

魂を磨く為に生まれてきたのだから、

◎タイトル名『この世は仮想現実』ご参照。

魂を磨く為に、自分で創作したストーリーを

クリアしていくってことになる。

これが分かっていないと

グルグルグルグル、

結局は自我のレベルに支配され、

悩みのスパイラルが起こるってことになり、

自分で考えないで、

方法論や早期の結果論を売りにする

誰かの教えや受け売りを

ただ単純に真似するだけだから、

その習得はまずもって無理であり、

結局は、

誰か(教えてくれた人など)を恨んだり、

批判したり、蔑んだり、後悔したり、

ぶらさがったりすることで

自分の弱さやいけてなさを補填し、

又、教えてくれそうな人を探して

又々同じ結果を繰り返す。
(これはこれで意味があると私は思います。
結果、結局は自分で構築するより他にスベは
ないってことを自らが導き出すから。
それも自分で決めたストーリーって
思えるかどうか。)

で、

そうならないように

その際に大切になるのが、

『前提』

であり、

「無相の自己」を認めれるかどうなのかを

自らが体感を持って感じることが第一義と

なる為、修養や知識の習得は当然ながら

必要となり、

修養、習得したのちに「無相の自己」を

覚知したならば、

我が身に降りかかる

「自我の視点での」

様々な問題のクリアに

困難さを感じることはなく、


問題であって問題ではない


から、

怖れや不安が伴わない為、

『悩む』って事が無くなる。

あるいは少なくなるってこと。
(自我レベルの悩みってやつは、
出来事そのものには無く、
自分の存在を脅かす
怖れや不安に基づくものが本質です。)

だから、

「ありのままでいい」

ってやつを、

(自我レベル)のそのままでもいい

ってことで捉えてしまうと、

先延ばしの甘えん坊で苦しみは続くってこと。

その一方で、

前提を「無相の自己」と捉えた人々は、

自ら創り出した課題に果敢に挑み、

その渦中にいる際に、

「無相の自己」=「ありのままの自分」

ってことになるから、

「自我」が感じる苦しみや悲しみや

恐怖や不安に脅かされないってことになり、

課題を粛々と

「無相の自己」

つまりは、

「魂を磨く為に」邁進するってこととなる。

だから、

厳密には、

『悩みなんてのは存在しない。』

ってことになる。


全ては


『自分の為にやっている。』


だから、


『やりたいことをやる。』


ってことで、

その目的はただ一つだよってことです。


私も含めてですが、

以前にも書きましたが、

あらゆる情報を極力シャットアウトする

ってことをしないとね。

「自我に支配され続ける。」ってことに

なりますよ。


『自らが考え、自らが感じ、

自らが体得する。』


その季節は、

誰しもに必ず訪れます。

その時に、


『やるかやらないか』


ただただそれだけです^_^