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隣の人

生き方


隣にいる人が笑っている。

隣にいる人がはしゃいでいる。

隣にいる人がウキウキしている。


見知った人なら

私も笑い。

見知った人なら

私もはしゃぎ。

見知った人なら

私もウキウキする。


でもこれが、

見知らぬ人ならどうだろう?


迷惑に思うこともあるだろうし、

顔をしかめることもあるだろうし、

あからさまに嫌な態度をすることも
あるだろうし、

見知った人とは違う反応を僕らはする。

勿論、TPOによりその程度は違うし、

見知らぬ人でも親近感が湧くような、

例えば、好みのタイプの人であるとか、

例えば、同年代の同性だとかによっても

反応は又違ってくる。


僕らはそういうもんだ

って思っておけばいい。


テレビの向こうで

お気楽に、おちゃらけながら、
はしゃいで馬鹿騒ぎをしている

エンターティナーがいたとして、

ひょっとしたら、

その人の
最愛の大切な人が余命いくばくかもない
かもしれないし、

ひょっとしたら、

昨日、その人自身の死期が近づいているって
宣告されたかもしれないし、

ひょっとしたら、

愛する大切な人を亡くした痛みを
抱え続けているかもしれないし、


ひょっとしたら

ひょっとしたら

ひょっとしたら


が僕らには誰だって必ずある。


哀しみや苦しみを抱えていても
出せない人もいるし、
出さない人もいる。

かと言って、

哀しみや苦しみを抱えているから
何事も許されるという短絡的なものでもない。


 ただ、


一面や、側面だけを切り取って、

その人の裏側や本質を見ようともせず、

その人の全人格として捉え、


こいつはこういう奴だと人は感じ、人は思い、
人は自分とは沿わない人間を
排除しようともする。


行動や言動についての意見や批判や
否定はしても許されるもの。

でも、

なんびとであろうとも、

その人の全人格を否定し、批判することを
許されているほど、僕たちは偉くはなく、
排除出来るほど、僕たちは偉くもない。


逆に言えば、

その思考こそが、

自分で自分を苦しめていく
ってことを知っておいた方がいい。


何故なら、

自分を基準とした生き方は、

基準値が明確であればあるほど

苦しくなり、

自分を基準とした生き方は、

揺るぎないと思えば思うほど

自分を縛ってしまうから。


それは、

強さではなく、

ブレない自分なんてものでもなく、


単なる防衛機制に根ざした

弱さ

の表れ。


それを満たす為に、

今日も明日も明後日も、


スケープゴートを探し彷徨うこととなる。


それが楽しけりゃやり続ければいいし、

それが生きがいならば探し続ければいい。


でも、

僕は、嫌だからやりません。


だって、

自分にも、そういう部分があることを

実感として持っているから。