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寄り添う

生き方


寄り添う

って言葉を私はあまり好きにはなれません。

何故か、

どことなく嘘っぽく聞こえてしまうから。


どちらかと言えば、

「側にいる」

って行為自体を指すと捉えた方が

しっくりときます。



例えば、

親友が落ち込んでいるとします。


あなたならどうしますか?



落ち込んでいる意味を聴き、

その落ち込みの解釈をし、

共に試行錯誤をし、

その解釈の解決方法を自分なりに

アドバイスする。


多分、

これが一般的に使われる

「寄り添う」ってことなのかな。


これに私は違和感を覚えるのです^ ^

だって、

それでは殆ど解決への動きを

するとは思えないから。


で、

私なら、


落ち込んでいる親友を

(例え)あんまり好きではなくとも、
(落ち込んでいる親友を見たくないと
行った意味合いで。)

親友だからこそ、

ただ一緒にいてあげることは出来る。

いや、


親友だからこそ

一緒に居させて欲しいと思う。


ただそれだけかなって感じます。


落ち込んでいる意味や解釈は親友だけの

大切な感情であり、

私の意味や解釈や、

ましてや解決方法などは

余計な混乱を招くかもしれないから

聞かれるまでは

余程のことがない限りは避けて通ります。


もし親友から

「相談あんねん」

って言葉があれば勿論相談に乗ります。


でも、

「今日時間ある?」

ってだけの

元気のない連絡があったとしたら?


私にただ出来るのは、


そうか、一緒にいるよ

って言葉は言わないにしても、

ひょっとしたら

ただ付き合って、

バカ話だけに終始して、

その場を終えるかもしれません。

とっても気になるけどね^ ^



ただ側にいる

ってことが力になる

ってことを信じていて、

人が持つ力をいつも信じたいから。



人は誰もが

その人なりのなんらかの解決方法を

いつも携えている。


でも、


持ってはいるのだけれど、

出来ない、分からないってついつい

言ってしまうもの。


本当は、

ホントに分からないことなら

分かる人に聞けばいいだけのことなんだけどね。


で、


そんな中でも一番困るのは、


分かってはいるのですがなかなかね。

って言葉を言ってしまう人。


それ、


分かってないってことだよ^ ^



分かったつもりになっているってこと。



分かったつもりだから変化しないし

変化出来ない。



またそして、

腑に落ちたり、気づきがあったり、

それは確かに大切なプロセスだが、

あくまでもそれは

キッカケに過ぎないもので、


腑に落ちる。気づきがある。


が分かったことって変換してしまい

結局は、そこで終わる。



そこに大きな落とし穴が潜んでいます。



理路整然と思考を整理し、

知的に解釈することが解決とはまずならない。


あくまでも、


変化を真に望むなら、

トライ&エラーを繰り返し、

自らがその負荷を乗り越えなけゃならない。


だからこそ、


その素養を身につける為に

気づきや腑に落とすというプロセスがあり、


真に気づき、腑に落ちたのなら

少しずつでも

行いを改めていかなければならない

ってことを分からないと

気づきや腑に落ちは無駄となる。



寄り添うのは、

自分自身に。



そして、

自分自身の側に自分がいるからこそ、

人は、

進むことが出来る。



今ひとつ、動けないのは、


自分が自分の側にいていないから。


つまりは、


他人事であることが、

最大の所以です。


他人事にしない為に、

自分が自分の側にいる。



本当の気づきや腑に落ちは、

そういうことだと

私は思っています。


つまりは、


何をやるか?

どうなりたいか?


ご参考まで。