自分自身に対する考えは、
かなりの部分を他者の判断に
依存しているってことを
私たちはもっと知るべし。
例えば、
失敗や挫折を
繰り返したりすると、
やっぱり私は駄目だ
や、
どうせ私には出来ないし
等のネガティブな
自分に対する考えが
頭をもたげ、
そんな自分を創っていき、
チャレンジや冒険を人は
抑制していく。
チャレンジや冒険とは、
格別大きなことや、
大層なことだけではなく、
新しい学びや、
新たな環境への順応や、
フレッシュな
人間関係の再構築等の
日常生活における
変化も含まれるのだが、
その取り組みを、
やっぱり駄目だ
や
どうせ私には
が
抑制してしまう。
出来ない理由
や
やれない理由は
ごまんと出てくるだろう。
でも、
その理由ってのは、
本当に自分自身が
心の底から感じているもの
なのだろうか?
出来ない、
やれない理由は、
大概が、
自分以外の他者の判断に
基づく経験値等からの
影響ではないだろうか?
私は出来る
私はやれる
そんなことはありうるか?
逆に問う。
出来る、やれる
私であってはならない理由は
果たして本当にあるのだろうか?
私はこんな事態に心が陥った際に
こんなことをいつも思います。
自分が恐れているのは、
自分が不十分なことなんかではない。
やれない自分や出来ない自分でもない。
ましてや、
駄目な自分でもない。
その恐れとは、
自分に、
自分が想像する以上の
能力や可能性が備わっていて、
その能力や可能性という光が
自分を極度に恐れさせている。
っていうこと。
(アブラハム・マズローの
ヨナコンプレックスの概念)
私たちは、
暗闇に目が慣れると、
暗闇に順応しようと努め、
何とか手探りで適応し、
安心安全の確保をしようとします。
(それはそれで素晴らしい適応力。
それが認知的不協和のなせる技で
あったとしても。)
でも仮に、
一度でも
明るい光を垣間見た経験があるのなら、
ずっと未来永劫に暗闇ではなく、
明るい光を再びにと
きっと思うことでしょう。
出来る、やれる
私であってはならない理由は
果たして本当にあるのだろうか?
あるんでしょうかね^^
ご参考まで
津村健司