自分のことをもっと
好きになりましょう。
なんて、
多くの人は言う。
私はいつもその言葉に
違和感を感じていて、
少し乱暴なようにも感じる。
それは、
好き、嫌いの
画一的な考えに対して。
そして、もう一つは、
好きや嫌いは、
あくまでもその
部分
を指すことであり、
総和、つまり、
自分というもの全体を
好き嫌いと捉えてしまう
精神性を助長する為。
そういう意味では、
私は未だかつて
自分のことが好きでない。
自分のことが嫌いである。
という方にお目にかかったことが
ありません。
確かに、
話を伺っていると、
自分の性格が嫌いや、
自分の容姿が好きでないや、
自分の体形に劣等感があるや、
そのような個別具体的なものに
対する好き嫌いは、
とてもよく理解出来ます。
ただ、
その一部を捉えて、
自分全体を好きではない
嫌いであるという志向性については
甚だ疑問があり、
好き、嫌いってのは、
極めて能動的にその対象に
興味関心があるってことであり、
興味関心があるってことは、
つまりは、
好き
ってことではないの?
って思うのです。
(好きになりたい
っていう願いや想いという
ことも勿論ありますが、
いずれにしても肯定的な
感情や思考がそこに潜んでる。)
皆さんも、
お友達などと話している際、
自己否定を繰り返し繰り返し
懸命に話す人に対して、
あー。この人は、
自分のことが本当に好きなんだな
って思うことってないでしょうか。
自身の欠点や良くないところを
挙げまくり、自分が本当に嫌いです
って相手が語る時、
それほどまでに
自己分析をする価値がある
つまりは、興味関心がある
ってことは、
即ち、その対象である
自分に対しての絶大な好きという
感情があるってことに気づく。
そして、
こうも思う。
そんなネガティブ面ばかりを分析する
のではなく、
そのエネルギーをもっと自身の肯定的資源の
抽出に使ったら良いのにと。
そして、
アドバイスをする。
あなたはこんなところが素晴らしいのに、
そんな風に考えないで!!
ってね。
でも、
相手はそこに焦点を合わすことは先ずない。
何故なら、
そんな慣れ親しんだ
自分が好きであるから。
それは、
嫌いな自分が好きということではない。
嫌な自分が好きということではない。
嫌いな部分を拾い上げ、
積み重ねて肥大化させ、
自分嫌いとしているに過ぎない
ってこと。
即ち、
繰り返すが、
自分のことに大いに興味関心があり、
それは、絶対的に
自分が好きだ
ということ。
嫌いな、嫌な部分を総和として
扱っているに過ぎないってこと。
そしてその実は、
自身の内部が対象ではなく、
外部
(誰かというマヤカシや幻想)との
比較論で語られている
一部分の嫌いの集大成であるから、
そこに気づき、
比較を止め、
誰かや普通や世間やという
極めて不確かで不透明な対象を排除し、
基準をしっかりと自分自身に設定し、
自分自身の肯定的な資源に目を向けていく
というエネルギーの循環や変換を
行うことが極めて重要となってくる。
またそして、
好きなのに、もしくは、
好きになりたいのに、
自身のことを嫌いだと
公言することにより得られる
甘い果実から
逃れる勇気も必要であり、
決断を迫られる(生き方の選択)
重要な場面であるとも言えましょう。
だから、
自分を好きになりましょう
ってのは実はなく、
元来、
僕らはおしなべて、
自分が好き
ってこと。
好きに責任を持つ
って生き方を見直した方が良い。
いや、
好きに責任もってやれ!!
っていう気概や情熱の方が
しっくりとくるかな。
遺伝子レベルでネガティブ因子を
多く持つのが私たち日本人と言われています。
遺伝子に人生を任せるのかい?
遺伝子が運命を決めているのかい?
遺伝子は宿命であり、
自分ではコントロール出来ないものなのかい?
いや違う。
仮に、
宿命であっても、
仮に、
それが運命であったとしても、
内容は変えることが必ず出来る。
それが、
生きざま。
そう私は思うんです。
いっぱいさ、
アナタという
その人間そのものの中に、
素敵で素晴らしい
ものが沢山ありまっせ^^
ええ加減、
認めてやりなはれ!!
声を限りにさ^^
ご参考まで。
津村健司