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蒔いた種には花が咲く。

生き方


『蒔いた種には花が咲く。』


これ、私の好きな言葉の一つです。

むか〜し、めっちゃ精神的にタフな時、

大阪の千里というところにある

名前はもう忘れましたが竹林に囲まれて

ひっそりとたたずむ

極めて神秘的な氏神さんのおやしろに、

多分、そこのどなかが描かれたであろう

水墨画のような背景の中に、

見事な楷書でそれは書かれていました。


そうか、

蒔いた種は花が咲くんや。

種は蒔かないと花も咲かないし、

蒔く場所も大切だし、

充分なお日様と豊富な栄養を与えないと

花も咲かない。


「縁起」

つまりは因果関係がこの世にはある。

原因(因)と条件(縁)によって結果(果)は

導かれる。


1.花の種を蒔く(因)

2.水や土の栄養や、

太陽の光を充分に補給する。(縁)


3.花が咲く。(果)


極めて当たり前のこの法則(法)を

悩みなどの渦中の時に人は考える。


あー。今の苦しい結果があるのは、

あの時、こんなことをしたからだ。

とか、

あの時、こんなことをしなかったからだ。

とか、

原因を探し、原因を鑑み、

振り返り、反省をし、又、後悔もし、

その反省、後悔の範疇で

決して留まるのではなく、

法則(法)なのであれば、

あらゆる事象にそれは適用され、

あらゆる人にそれは当てはまる。

と考え、

じゃあ、

今日から考え方を変えていこう。

今日から行動を変えていこう。

今日から生き方を変えていこう。

という決意ともなる。


でも、残念ながら、

決意はいとも脆く、

日常生活に戻ると、

知らず知らずの内に、

又、同じことを繰り返したりもし、

「蒔いた種には花が咲くとは限らない。」

から、

決意が緩み、努力もしなくなる。


そう、その通り、

「蒔いた種には花が咲くとは限らない。」

つまりは、

「花を咲かす」という目的のみに

焦点が当たり、

早く花を咲かせたいから、

花を咲かす為の日常に様々な迷いが出て、
(主に方法論などの探索)

結果、その迷いが「縁」となり、

導かれるその結果はあいも変わらず

閉塞感。


いやいやちゃうやんちゃうやん^_^

「花を咲かす」ってことだけにフォーカス

するから方法論となり、

自らに方法論がないから他者から探す。

で、

他者から探すと

それは他者比較を必然的に生じ、

行動や行為の妨げとなり、

導かれる結果は当然同じ。


つまり、

プロセス自体が今までと同じだということに

気づけるかどうか。


そのプロセスって何?

って考えてみると、


それは紛れもなく

「自分自分」という概念。

「自分の為に花が咲く。」をやってきたから

こそ苦しいのであれば、

「誰かの為の花が咲くお手伝い。」を

すれば良い。


お手伝いはお手伝いに過ぎず、

それ以上でもなくそれ以下でもなく、

認められようが認められまいが関係なし。


誰かの役に立てるかもしれない自分を創る

ということが、

内に内に向く自らの精神の拠り所から

外に外に向く精神となり、

その方法論の自分なりの構築こそが、

「花を咲かすかもしれないし、

花が咲かないかもしれない。」

ひいては、

その「花」ってのは、

お金とか名誉とか所有とか欲とか、

そんな現実的なことだけではなく、

「存在」を自分で自分自身に感じるってこと。


つまりは、

「蒔いた種によって存在は変わる。」

が一番ぴったりとくるんじゃないかなと

私は思う。


蒔く種が自分の為であるのは確かだが、

自分の為っていう前提ではなく、

他者の役に立つを前提とした時に

それが翻って自分の為となる。


からこそ、


日常は変わる。


それは、

「両足で立っていること」が自分である。

という感覚から、

(右、左はどっちでも良いですが)

右足に現実(自分)を感じて立ち、

左足に他者の役に立つを信じて立つ。

ってことで、


それは、

苦しい時の

両足で立っていることが自分であるという

ある意味、

人としての苦しみの姿勢からの

完全脱却を意味するってこと。


よくよく考えてみれば分かること。


人は、

自分の為には頑張れない。

でも、

大切な人の為ならば、

命を賭して頑張れるってこと。

損得抜きにね。


だから、

日常が変わり、

成長が始まる。


僕たちの「花」は何?

あなたの「花」は何ですか?


よーく、考えてみなはれやー^_^