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この世との繋がり直し

生き方


私らしさ

私らしく

自分らしさ

自分らしく


世界の流れは盛んに私という主体を

煽ります。

ひと昔前までは、

どちらかと言えば、

私という存在が虐げられてきた。

それは不幸な歴史であり、

例えば、国の支配とか、

例えば、男尊女卑の思想とか、

その中で、

私という主体を取り戻す為に

世界は闘い勝ち取ってきたから

今がある。


近世における私というものは、

虐げられてきたからこそ虐げる側の

対象との心理的軋轢や、葛藤が生まれ、

ある意味では、

仕方ないや、諦めや、

運命として受け入れるや、

そんな風に生きざるを得なかった。

でも逆に、

そんな時代を肯定するつもりは毛頭ないが、

仕方ない。諦め。運命として。

はとても生きやすかったとも言える。


何故なら、

従っていればある程度の許容範囲までは、

そんなもんだと思えるから。


でも、

現代は そんなもんだと思えない。
(国や地域によるだろうが)

だから、そこにしんどさがある。


実際に、

日本でも、モラハラや虐めや、貧富の格差、

パワハラ、マタハラ、セクハラなどの

多くのハラスメントが存在するが、




という主体が確立しているからこそ、

その状況事態が、

良くないもの。正しくないもの。

悪いもの。辛いもの。という認識が

我々に出来、

だから、


抗う。


でも、

その抗い方が分からないから

とても辛く、とても苦しく、

とても孤独である。

(繰り返しますが、

そんな関係性を

決して容認しているわけでなく、

受け入れろっていうわけでもなく、

事実を事実として

表しているに過ぎません。)


私は思うのです。


私らしさを強調すればするほど

私というものから離れていく。


つまり、

分からなくなっていき、

なすすべがなくなるってこと。


表れている不都合な関係は、

不都合な関係のみの

解決に終始した方が良く、

それは、

第三者の介入もしかり、

専門家のサポートもしかり、


でも、

もし仮に、

私らしさがその出来事のせいで

無くなったり、失われているとしたならば、

それは、

世界の趨勢通り、

私らしさを取り戻していくってことが

大切で、

取り戻していくには時間もかかり、

その時間は、

大概は、癒しに使われる。


で、

問題はそこから。


つまり、


私らしさ


を確立したのちには、


私らしさ


をいかに消していけるのか?


って大きな課題が私たちにはあり。


それは、

他者の影響によって消されてきた

私らしさではなく、


自主的な力で


私らしさという実態のない

自我もどきを

消していくもの。


つまりは、


全てのものの中に統合され、

ある意味、埋没出来る

なんて言ったら良いか、

言葉ではなかなか難しいのですが、

魂の休まる安心出来る安息の地

って感じですかね。


私たちの存在自体の中心を、

自我というものに見立てた時、

その自我自体の機能を極力発動させなくても

よい環境ってのかな。

そんなところが本当の休まる場所って

ことのように私は感じる。


で、


多分、

私の場合は、

それが、


「死」


ってことになり、


その死は

自死では叶えられるはずは絶対なく、

勿論、

そんな発想を絶対的に否定するものですが、

自然に寿命を迎えた時、

本当の自我の安らぎ

つまり、


安息の地


が得られるのでは?


って思うのです。


だから、


私は、ある意味、

「死」を楽しみにしていますし、

誘惑に駆られるってことも

確かにある部分は否めないけれど、


楽しみは、


最後まで大切にとっておきたいから、


大切なものとしてそっと置いています。


少し、

哲学的^_^

になりましたが、


自分らしさにもし

振り回されて、

自分らしさに囚われている方が

いらっしゃったとしたならば、

(かなり多いんじゃないかなって思う。)


何とか頑張って、

自分らしさ

ってやつを

しっかりと確立した上で、

自分自身でそれを剥いでいく。

ってことの段階を経ていく

ってことが必要じゃないのか?


なんてことを

意識されてみると




というものが、


少し楽になるのでは?


そんな感じがしています。


自我を防衛する機制が過度に働きすぎるから、

心のバランスが崩れていくって解釈があり、

私はその理論がとても腑に落ちるのです。