· 

察する。

生き方


二者間において、


察する。

察し合う。


っていうのは、


暗黙の了解だとか、

阿吽の呼吸だとか言われ、

古くから私たち日本人には馴染みのある

言葉です。


空気を読むとか、

ひと昔前のKYだとか忖度だとか^ ^


とかく、

距離感や空気感や雰囲気の良し悪しに

捉われるのが私たち。


確かに、


阿吽の呼吸や暗黙の了解は

素晴らしいことだとも言えます。

でも、

現実的にはどうでしょう?


長年のご夫婦であればそれもあるでしょうが、

それはそれなりの歴史を経たからとも言え、

なかなかそんな関係性を結べないのが

実際じゃないでしょうか。


でね。


例えば、


何でも察してくれる相手がいるとする。

顔色を見て、

あっ!今機嫌悪そうだから後にしよう。

とか、

わっ!疲れていそうだから今度にしよう。

とか、

まあ優しさでもあるのでしょうが、

気遣いや配慮でもあるのでしょうが、

もし、


大切で重要な話をしたかったとしても


察する


ことで躊躇してしまい

結局、出来得ずじまいなんてことになると、


それは、


察するがあまりの我慢となる。


私たちは、

子ども時代の

母子関係をある程度は引きずって

生きています。


つまり、


何もしなくとも母親は察してくれる。


それを他者に求めても、

社会はそれ程甘くはない。


でも、


目の前に察してくれるパートナーなり、

そんな関係性を結んでいる相手がいて、


その人は、


自分ではなく私を察し優先してくれる。


言葉なんて必要ない。


だって、

母親の代わりのような存在なんだから。


これ、


お互いだったらいいんですけどね。


でも、

一方が

我慢

という衣を纏っているとしたら?


これは、

察してもらう側の退行を誘発してしまいます。


これは、

どういうことかと端的に言えば、


夫婦関係における

主に男性の母親代わりが奥さんだ。

ってこと。


察してくれるは甘やかしてくれると

極めて近しいこととも言えます。


何でも甘えられる存在は、

本人にとっては大満足です。


でも、


その甘えは、

相手への配慮を無くし、尊重を無くし、

独り善がりの自分勝手を呼び覚ます

恐れを多分にはらんでいる。


そうなるとどうでしょうか?


それが長期に継続されると

どうなるでしょうか?


そんな固定化された関係性が

良くないことは明白です。


それは、

察する側も察せられる側にとってもね。


親子関係も同じこと。

親が察し過ぎることは子どもにとっての

代弁を意味し、

代弁をしてくれる親に子どもは安心をします。

ここまではいい。


でも、


ある線を越えてまでそれが続いていくと、


察してくれて当たり前がまかり通り、


自主性という萌芽の芽を摘み取ることとなる。


で、


その子どもが社会に出ると?

・・・。


察するというのは確かに美徳でもあり、

尊重でもあり、優しさでもあります。


でも、


その関係性が続くならば

察する側は、

考え直し、行動を変えた方が良い。


ご主人が傲慢だ。

彼氏が高圧的だ。


ずっと、

察し続けていませんでしたか?


退行は個人の成長を止めてしまい

時には暴君を生み出すことさえある。


これが、

会社の上司なら、

パワハラを醸成する風土となるかもしれない。


あなたと私という関係性に大切なのは、

コミュニケーションであり、

コミュニケーションは

意思の疎通であり、

一方通行の伝達手段ではありません。

言葉や言葉以外で成り立つ

コミュニケーションというものの中で、


言語以外である

雰囲気や相手の心中を察し、

ある意味、相手の代弁者となることが

続いているとしたら?


きっと、


圧倒的に、


言葉。

つまり、会話は少ないはず。


だって、

察するのだから、

言葉はいらないのだから。


それでいいのかどうか?


察することが、

相手にとって、

自分にとって、

本当に良い関係を結べる手段なのか?


いつも

自問自答する必要が、

どうやら私たちには必要なようですね。


相手の成長を止める権利は誰にもないし、

自らの成長を自らが止めて良いはずもない。


ほどほどに

察する

ってことが大事です。

TPOも含めた上で。


ご参考になれば幸いです。