ココロテラス:心理カウンセリング・キャリアコンサルティング大阪梅田[首から下]

生き方


僕たちはいつも何かを考えていて、

その考えているところは首から上。

つまり、頭脳。
(意識していなくとも
無意識に思考活動は
いつも自動的に行われている。)


学校や教育は知性を重んじ、

知性を学ぶことを奨励される。


頭脳は知性の肥大化したもので、

頭脳はいつも知性を欲しているもののように

私には思われる。


勉強しなければ。

学ばなければ。

賢くあらねば。


確かにそれはそれで大切だけれど、

そればっかりに慣れてきた(慣らされてきた)

僕たちは、

考えることが得意であり、

思考することが生命の根源のように

思っている。


頭脳偏重の私たち。


知性(頭脳)は過去の記憶であり、

過去の記憶は現在の知恵ともなるが、

いくら考えても考えても

答えの出ないものが私たちにはあり、

それでも答えを導こうと

あいも変わらず頭であれこれ考える。

でも、

考えて結論がハッキリとすることは

実に実に少ない。

又、過去の記憶が一人歩きすることにより

未来の不安を無性に煽ることにもなり得る。


頭脳偏重という意識を

いかに無意識に僕たちはしているか

ってことにそろそろ気づいた方がよい。


私は

詰まったら

頭より下で感じるようにしています^_^


胸が痛い

とか

胃が重い

とか

喉が詰まる

とか


身体が教えてくれている。


例えば、

不安や緊張や恐怖などで

胸がドキドキすることがある。

そんな時、

頭脳でその理由を考えてみても、

そのドキドキの理由の把握は

出来るかもしれないが、

解決方法は導き出せない。

でも、


その胸のドキドキに声をかけ、

そのドキドキさんに

「ドキドキさん。ドキドキさん。

そこにいてくれているのを

僕はちゃんと君の存在を分かっているよ。

ありがとう。教えてくれて。」

って言うだけで、

不安や緊張や恐怖が

たちどころに消える場合がある。
(解決するという意識ではなく、
それをただただ認める。)


何度もある^_^


考えるな

感じろ。


又、

「あー。なーんかこのメンバーは嫌だな。」

何故だろう?

頭脳が過去を遡る。

あー。そうだそうだ。

このシュチェーションが以前にもあった。


だからだ!


で終わり。


でも、


身体に聴くと、


肩が重くて脚が怠い。


「肩さん肩さん。何故重い?

脚さん脚さん何故怠い?」

って聴いていくと、

肩さんが、

その重さは以前に同じような

シュチェーションで馬鹿にされて

傷ついたことや、

傷つきたくないから構えようと力が

入っていることや、

それによって、脚が何となく怠い感覚を示し、

行かさないように自分を守ってくれているのが

実感として分かる。

で、聴く。

「肩さんも脚さんもありがとう^_^

分かったよ。で、どうしたいの?

行きたいの?行きたくないの?」


直感が答えを導いてくれる。

勝手に教えてくれる^_^


そんなもの。


心理でいう

フォーカシングやSAT療法などは

言わば、

全人的なものの捉え方への啓示でもあり、

それらをバランス良く取り入れることが

より良く快適に暮らす智慧なんじゃないかな

って私は思います。


つまり、


精神と肉体

首から上と首から下


など

部分的に偏るのではなく

統合的な概念で自分を捉えてみる。


実際、

心は脳にある?


そうかも知れないし、

そうじゃないかも知れない。


無数の僕たちの体内細胞は、

波動?音?光?を放っている。


そういう世界に僕たちは生きている。


知性や知識

が及ばない領域があり、

その領域は果てしなく広い。


だからこそ、

今までのやり方を一旦やめてみる。


苦しい時は

首から下を意識する。


それだけで、

少し楽になるもんです^_^


お試しを。


PS

全人的→

全人格を総合的に捉えるさま。

身体、心理、社会的立場など

あらゆる角度から判断する。

よく、全人教育なんて言われますね。

思考だけが先行した教育に対する警鐘で、

フォーカスされにくい感情面を自由に表現する

環境整備の為、既得権益や既存の体制を

リストラクチャリングしていく方向性。


先生と生徒

医者と患者

師匠と弟子


先生や医者や師匠は

生徒や患者や弟子があってこそ成り立つもの。

ってこと。


だから私は、

フラットでいたい^_^

で、

フラットが行き着くと

私にとっては脅威とはなるが、


ファシリテーターとしての道は残される。


促進者^_^

そこに上下はなし。


つまり、

本質存在よりも


実存。