両価性(スタートの春だから)

やりたいけれどやれない。

 

そんな声をよく聞きます。

やれないのは、

やれない価値がそこにあり、

やりたいのは、

やりたい価値がそこにある。

こんな両方の価値観による

感情のジレンマに陥ることが

私たちにはよくある。

やれない価値とは、

やれない動機がそこにはある。

例えば、

やることが億劫である。

やってもどうせ無駄である。

そんなことをやるのは気が引ける。

誰もやってはいないし、意味がない。

等、

やれないことに何らかの意味付けをして

回避し、やらないことを肯定化させている。

つまりは、

やらないことが、

自分にとっての価値を生み出す。

その価値とは、

やることによる失敗や挫折などの

傷を負いたくないとか、

自分には価値がないと信じた方が楽だとか、

やらなくとも大差はないであるとか、

何もしなくとも

このままでも十分生きていけるとか、

様々な自分にとっての価値が、

私たちのやれない、やらないを

後押ししている。

でも、

このままでは駄目だ。

このままでは嫌だ。

このままでは終わりたくはない等の

感情が出た時に、

やりたい気持ちとやれない気持ちが

拮抗する。

そして、

自分にとっての価値が

どちらかに収束した時に、

人はやるかやらないかの選択をし、

その行動を起こす。

 

何故、自分はやりたいのか?

何故、自分はやれないのか?やらないのか?

 

を僕らはいつも自身に問う必要がある。

何故なら、私たちは通常、

やれない、やらないの

選択を取るほうが多いから。

やれない、やれないは、

必然的に現状維持を基本とし、

変化をもたらさない自分を具現化させる。

どんな人も

変化や成長や発達を

望んでいるわけではないが、

変化や成長や発達を肯定的には捉えている。

だから、

自分には到底出来得ないことを

やり遂げたり、

成し遂げたりした人々を称賛し、

もてはやし、

逆にその人々が道をそれたりすると

徹底的に叩き、

その人々が頓挫したりすると、

これでもかという

自身のエゴが基底にある

(これに気づかす)称賛や

持ち上げというプレッシャーで

その人を潰しもする。

 

自分自身の代替えを他者に重ねて満足する。

 

それは、

社会的証明でも明らかにされ、

実際にビジネスにも

巧みに応用されてはいるが、

閉塞的な世情や混沌の社会では

そこかしこに目にする光景となる。

 

変化を嫌う。

変化が怖い。

変化が面倒。

変化が煩わしい。

 

変化する価値がない。

 

そう思い込んだ方が楽ではあるし、

そう思い込んだ方がメリットもある。

なら、

 

やりたいけどやれないの

声が上がるのは何故?

 

みんな自信を持ちたいのよな。

みんな自分を誇りたいのよな。

みんな自分を価値あるものとしたいのよな。

 

じゃあ、

 

やりなはれ 笑

 

やれないと言っている、

やれないと思っているけど、

 

その年齢まで、

本当にやれなかったことばかりなの?

やりきれたことはないの?

やり遂げたことはないの?

 

どんな人でも必ずある!!

自分の中にある貴重な資源を探し出そう。

 

でも人はそこには目が行かない。

 

自己棚卸をしてみよう。

自己分析をしてみよう。

 

その上で、

やれない、やらないメリットを

自身が認識し、

やるメリットも同様に認識し、

そのメリットが、

やるが、やれない・やらないを

上回った時に、

初めて人は、やる行動を起こす。

 

やりたいになる。

 

やりたいは尊いです。

 

失敗するかもしんないし、

傷つく確率も上がるかもしんないし、

でも尊い。

 

何故なら、

 

やりたいはなりたいだから。

 

なりたいは、目指すもので、目標で、

未来で、将来で、

 

そうなりたいがあるのだから、

 

僕たちは、

生きる価値を自身に見出せる。

生きる意味を明確に内在化出来る。

 

人生は暇つぶし。

 

暇をどうつぶすかが

自分の人生を振り返った時に、

とても重要じゃないのかね?

 

あなたのやる、やりたい動機は何ですか?

その価値は、あなたの心のどこにあり、

その価値は、

どこから来ているものでしょう?

そいつが、誰かの価値観ならば、

その価値は、

あなたの価値ではありません。

それは勘違いしないようにね。

気をつけて!

 

さてと、

 

そろそろやりなはれ!!

 

ココロテラス

津村健司