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承認欲求


承認欲求については

今まで何度も書き記していますが、

この欲求。

なかなかに厄介なもの。

 

認められたい

 

という心の希求は、

大概は、

我慢や忍耐を強いられることも多く、

 

大人しくしていれば褒められる。

従ってさえいれば愛される。

穏やかな振る舞いが好かれる秘訣。

真面目に働けばきっと報われる。

(評価される。)

 

なんて、

 

他者視点による見られ方を、

とかく私たちは無意識のうちに

思考しています。

 

私たちの本能

 

といっても良いかもしれません。

 

なかなか自己承認が難しいから、

他者承認によって、その欲求を

充たさざるを得ないのかもしれません。

 

 

お釈迦さまは^^

 

中道を説きました。

 

執着や煩悩を捨てる為の苦行や荒行、

自身を甘やかし、怠惰な生活を送ったり、

不摂生な日常を送ったり、

 

 

お前らホンマ極端やねん!!

 

 

真ん中を歩みなはれ

ってことを説きました。

 

 

スジャータという少女が、

乳粥をお釈迦さまに与え、

お釈迦さまは躊躇なくそれをすする。

 

他者承認と自己承認の接点がそこに

ある感慨深いエピソードだあなって

いつも私は思います。

 

露わに苦しいガリガリの姿を

人前にさらし、

それを見かねたスジャータが、

手を差し伸べる。

でも、お釈迦さまは苦行の身、

苦行を押し通すには、

その差し伸べられた手を

振りほどくしかない。

 

でもお釈迦さまは、

躊躇なく差し出された乳粥をすする。

 

色んな解釈がそこで出来そうですが、

 

私はこう感じます。

 

その当時はまだ、人間釈迦です。

 

ガリガリの身体を人前にさらし、

私はこれほどまでに苦行を

積み重ねているのだよ。

(苦行なら、下界には下りない。)

これは、他者承認の欲求。

で、

乳粥を躊躇なくすする。

 

生きている人間は食物をとることは

当たり前で、食物をとらないと死ぬ。

身体を大切にしないと。

そして、

神に与えられたこの身体を、

虐め、鞭打つ

ことは、意味のないことであり、

苦行や荒行により、解脱することはない。

だから、スジャータの乳粥を私はすすろう。

これ、自己承認。

 

って、解釈を私はします。

 

 

話を戻すと、

 

 

他者承認をほどほどに

ってこと。

極力、自己承認で生きること。

 

このせめぎあいが、

中道なのかな

って気がします。

 

 

アドラーは、

自己承認こそが!!

と強く言っていますが、

他者承認という概念が無ければ

自己承認などというものは存在せず、

それぞれに、

適度な良い加減を体得することが、

とても重要だと思います。

 

冒頭に書き記したいくつかの例は、

 

こう変換すれば楽になります。

 

 

大人しくしていれば褒められることもある。

従ってさえいれば愛されることもあるかもしれない。

穏やかな振る舞いが好かれる秘訣なのだろう。

真面目に働けば報われる(評価される)可能性もある。

 

ってね。

 

で、

 

最も注意しないといけないのは、

 

我慢や忍耐の等価交換で

これらが得られるものではない

 

ってこと。

 

他者承認のコントロール権は他者。

その他者の視点を自分に置き換え、

自分ならばという視点で物事を見る。

 

それこそが、

 

ギブ&テイク

 

の罠。

 

煩悩や執着なんてものかもしれませんね。

 

○○したにもかかわらず、

思うような結果が得られない。

 

 

これ、当たり前^^

 

 

と出来るかどうか?

 

仮に、

自己承認欲求を充たすなら、

私ならこうします。

 

 

○○したかったから、

○○しただけ。

だから、

結果は良かれ悪しかれ、

 

 

ただの結果で、

 

 

たまたま^^

 

 

つまりは、

 

したかったからそうした。

 

ここに真理があると思います。

 

自己コントロールの真髄です^^

 

 

ご参考まで。

 

津村健司