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気張らず、気負わず


私たちの人生において、

 

やれることは無限にある。

 

しかし、その逆に、

 

やれることは限られており、

 

とても少ないというのも事実であり、

 

そう捉えた方が良いと私は思う。

 

 

やりたいという欲求があって、

 

そのやりたい動機づけが下支えとなり、

 

やれるという確信が生じ、

 

やれるのかという自身のスキルチェック

 

や、可能性などの内省化を経て、

 

更に、

 

やり続けるという強い動機づけが

 

あってこそ、

 

無限にやれることという漠然とした世界に

 

人は飛び込んでいく。

 

もしくは、

 

やれることを見極め、

 

確実にやれそうなことに焦点を置き、

 

やれるように、日々自己研鑽に励み、

 

徐々に自信をつけながら、

 

やれたという自負心が、

 

あらゆる可能性の扉を開いたり、

 

その過程そのものに

 

有意義性を見出すというのもある。

 

 

それぞれの生き方がある。

 

 

かと言って、

 

何かをやらなければならない

 

なんてこともなく。

 

何もやらないという選択もそこに価値を

 

見出すことが出来得れば、

 

その人にとっての安心、安全性は担保される。

 

 

つまりは、

 

どんな生き方や、捉え方、やり方であっても、

 

そこに決められたレールやルールはなく、

 

実に自由なものであり、

 

自由なものだからこそ、

 

不自由さを伴い、

 

そこに知恵やスキルの獲得といった

 

努力という

 

極めて能動的な力が存在せざるを得ない。

 

 

だから、

 

努力

 

というものに視点を合わせると、

 

 

気張らず、気負わず

 

 

というキーワードが浮き立つ。

 

 

何故か?

 

 

気張り、気負うと、

 

努力というものは、

 

その性質上、維持や存続が難しいから。

 

 

努力というのは、

 

努力せざるを得ない自身を顕在化させる

 

こととなり、

 

努力しなければ、

 

行うことが出来ないという習慣性を学習する。

 

で、

 

習慣性を獲得するには、

 

維持、継続が必要となり、

 

その為には、

 

負荷も多少は必要かもしれないが、

 

気張らず、気負わず行うということは、

 

努力という言葉の範疇から外れ、

 

やりたいからやっているという

 

精神的な安定を生み出し、

 

動機づけともなる。

 

で、

 

だからこそ、

 

文頭に戻るのだが、

 

気張らず、気負わず行う

 

という前提を持つために、

 

 

やれることは限られている

 

 

という意識を持つことが

 

結局は、

 

習慣性を獲得するのだから、

 

汎用性も強化され、

 

有機的に、やれることが増えていく

 

ということとなる。

 

 

それは、

 

 

やれることは限られている

 

という意識を持つからこそ、

 

 

やれることを地道に繰り返すことが

 

出来るということ。

 

 

本業に精を出し、

 

その時代時代に沿いながら、

 

柔軟に、でも、

 

決して基本から逸脱しない

 

例えば、

 

 

老舗

 

 

などが良い例であるが、

 

何故、それほど継続しているのかを

 

考えると、

 

結局は、そこに行きつくものということが

 

容易に理解することが出来る。

 

 

 

気張らず、気負わず、

 

やれること、出来ることを

 

やっていきましょうよ^^

 

って、お話でした^^

 

 

ご参考まで。

 

ココロテラス

津村健司